本質は存在しない

離散的な「今この瞬間」が因果法則によって瞬間的に現れては消えてを繰り返しているだけであり、本質はあくまでも概念に過ぎず、従って本質は本質とイコールではないというパラドックスが発生する。

 

つまり、思考という形態の向こう側に、非言語としての本質は存在する。

 

本質は概念に過ぎず、概念であるが故に、概念の外に出ることはできないという限界が存在する。

 

概念ではない、

概念があるでもない、

概念がある、かつ、概念がないでもない、

また概念がない、かつ概念がある、というわけでもない。

 

「理解」するものでもない。

理解しないわけでもない。

知らないわけでもない。

 

ないわけでもない。

 

考えの領域から外れるわけでも、外れないわけでもない。

 

何事も思った通りにはならない

どんなことでも、自分が思った通りにはならない。

コンマ一秒先も、もはや予測は不可能である。

 

全ては流転にあり、自分自身もその中にあるから。

それ故、次の瞬間に何が起きてるか、また何が起きて欲しいかすら、蜃気楼のようなものに過ぎない。

 

物事は段階的に進行する

誰にも分からないと思うが印象程度。

 

ある人がA地点からB地点に行きたいと思っていたとして、この人はいきなりB地点にいけることはない。

 

なぜなら、この人が本当に望んでいるのはA地点からB地点に辿り着くまでの段階的なプロセスであり、その少しずつの成長の期待感などの経験を、本当は望んでいるから。

 

だから、何事もいきなりそのようになることはあり得ず、必ず前兆のようなものがある。

 

全ては段階的に進行する。

 

という感じで、例えば今この人はかなりの諦めの中にいるようです。

 

人生のゲームの例え

こんなゲームがあるとします。

テレビ画面の中にあなたとよく似た人物がいて、そしてその外にはプレーヤーである本当のあなたがいます。

 

プレーヤーであるあなたは、ゲームの中の自分も幸せに暮らして欲しいと感じました。

しかし、これはゲームの中の話に過ぎませんから、直接干渉することはできません。

 

ではどうやって本当のあなたは、画面の中の自分を望む方向に持って行こうとするでしょうか?

 

参考まで

 

深海魚の例え

海の底にいるとします。

一度水面まで泳いで行って、青い空と夏の日差しを感じたとします。

ずっとこれを感じていたい、そして仲間たちに夏の日差しの感動を伝えたい。

 

しかし魚は魚であるに過ぎないため、生き続けるにはまた深海まで潜っていかなければなりませんでした。

 

「めんどくせ〜」

 

という、

4Dの臨場感たっぷりのVR映像をあなたはただただ眺め続けていました。

 

参考まで。

ゼノンのパラドックス

恐らく誰にも分からないことであるし、本当はもう書きたくないのだが、やはり参考程度に書き残しておきたいと思うので、書いておく。

 

ゼノンのパラドックスの中でも、特筆すべきは移動についての話になる。

 

A地点からB地点に行くには、その中央の地点を通らなければいけないが、その中央の地点に行くにも、さらにその中央の地点を通らなければいけない…

 

というパラドクスだ。

 

結論から言うと、あなたの感覚は全て錯覚に過ぎないと断言できるのだが、時間も、空間も、移動も、この世には単なる「形象」としてしか存在しない、つまり、単なるあなたの本当に下らない妄想や空想や茶番劇に過ぎない。

 

従って、「ゴールに辿り着きたい」と考えていると、いつまでもゴールに辿り着くことは絶対にあり得ません。

なぜなら瞬間しかないからです。

 

従って、「ゴールにたどり着いた」そうあなたが思った時、本当にゴールに辿り着きます。

 

従って、聡い人なら「今この瞬間」に意識を合わせていってみてください。