相手の全ての力は自分の中にある

同じ言葉を使われても、怒る人怒らない人がそれぞれあることから分かるが、悪口を言われて悲しみが生まれるのは相手ではなくて自分の心に原因がある。

 

罵倒されても別の作業に集中していれば、その時何も起きていないのと同じになる。

 

相手に力はなく、自分の心が相手に力を与えている。

だから例えば所謂言霊の正体は、あるとすれば自分の心となる。

 

流行の服は、それが流行の服であると自分が認識しているから、それを着ている人を見ると何かを感じたりする。

自分がそれを認識していなければ、たとえ流行の服であってもこの心はそれに何の力も見出さなくなる。

 

自分の心が全ての現象に力を与えている。

この心が無ければ、どんなものでも単なる光学的な映像や音に過ぎない。

 

 

 

心に心を自分で攻撃させることが、悪口となる。

 

ならばそれを認識しなければ悪口は成立しなくなる。

どんな音であれ姿であれ、この心が無ければ音であり、姿に過ぎない。

 

相手の全ての力は自分の中にある。

 

自称小鳥達の音楽

名誉心に程遠い謙遜な家庭の息子たちは

ひとたび道徳的感情を失えば、通例急速に

完全なごろつきに成り下がる。

         (曙光 一部抜粋)

 

という感じのワードが、とあるコメントを見ていたらふっと湧いてきた。

 

玉石混交のカオスの中から、自分の力で分析することにおそらく関心がない。

 

独自の結論に辿り着くはずだが、なんか違和感を感じたコメントとかは、よく見ると何故かほとんど大体同じことを言っているのが目についた。

 

 

 

この人たちは、この人たちが良心の呵責を感じつつも敢えて馬鹿にすることによって叱咤している人たちと下記の点で共通している。

1) 二元論的無謬論

2) 結論ありきの信仰

 

特に1)は、論者を自称するにしてはあまりにも初歩的なミスなので、ものすごく違和感があった。

 

少し考えてみたが、

 

つまり、精神的安心感の解消と劣等感の補償を提供するメディアの、熱意ある支持者という感じになるのかなぁ、と思った。

 

だが、それにしても単なるアンチテーゼを目にしたぐらいで信仰心が揺らぐようでは、それは熱い信念の欠如を示すようではないか?

 

つまり仮に何らかのメタ的構造を持つ精神鍛錬とかでは無いとすれば、この人たちは熱意の宗教者としても、迸る熱意を胸に秘めた論者としても、あるいは何らかの活動家にしても、あまりにも、中途半端に見える。

 

となれば、彼らの真意は何なのか?

 

信仰者でも論者でも活動家でもないとすれば、認知的不協和による不快感の打ち消しの不随意的な表出以外には考えられ無いということになってしまうのだが、何かの間違いなのだろうか?

つまり例えば、早朝に聴こえる小鳥の音楽のように、文言的に注目すべきところは何一つない、ということになってしまう。

 

小鳥の音楽は美しいと感じるが、コメント欄の罵り合いには、どこまでも昏い底意が渦巻いている。

 

自称"論客"達へと感じる違和感。

自称小鳥達の音楽。

 

彼らの良心の呵責が、ほんの少しでも少なくなって欲しいと思う。

 

ネガティブさの効用

 

前置きとしてはまず

一方的媒体は超情弱向けのものだが、

そのアンチテーゼ的なものも既に超情弱を完全に相手にし始めてるので、

賢明なら意識は切り替えておいた方が良い。

 

さてネガティブさについてだが、

超情弱媒体で言われるようなことを間に受けていると本当に碌なことはない。

 

ネガティブさとは自然の感情であるから、例えば盲腸にも役割があったように、代え難い下記の役割があるからだ。

 

1. 頭が良くなる

2. 自分の人生を省みるようになる

3. この状態から別の状態に移る強いきっかけになる

 

1について、これはごく当たり前の事で、今が楽しくてしょうがない人は未来や過去のことは一切関心がなくなるため。

2や3についても同様。

 

世の中には経済的な分類以外にも情報量の分類が存在するとすれば、その時超情強の人の気持ちを想像してみよう。

 

 

正直、なぜ多くの人は形而上的な自省を行わないのか本当に疑問だったのだが、

人生において生まれてきてから特に何も困難がなければ、誰でもそうなるのだと気づいた。 

 

僕も何かしら困難がなければ、他の多くの人間と混じって同様に省みることはなかったのだろう。

 

やはりそこに優劣は存在しないのだと気づいた。

 

後、

おまけ的だが、

この手のことを調べていくと本当に驚くような

地点がある、ということだけは書いておこう。

 

それが何なのか。

あなた自身の目で確かめてみよう。

哲学機械のパラドクス

僕の独自概念なので紹介していこう。

 

とある地球と似たような星に、赤外線センサーを一つ持ち人間と同じように理性を持った機械が居た。

 

この機械は古代の哲学者達のように、日夜自分のセンサーによる観測と推論とを駆使していわゆる真理の探究に勤しんでいた。

 

では、観測データの末にその機械の出す哲学的結論はどうなるのか予想してみて欲しい。

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「音は果たしてこの世に存在するのだろうか」

 

赤外線センサーのデータを解釈する限り、音はその概念すらこの世に存在しない。

 

音によって会話を行う人間はこの星にはいなかったが、この機械がもし現代の地球に来たらどうなるか。

「これらの生物は全く持って不可解と言わざるを得ない」

 

しかし研究の末にこの機械は、一つの結論に辿り着いた。

「そもそも私にはたった一つのセンサーしか搭載されていなかった」

 

従って、自分の持つ先天的な限界性に気づく機械こそが、真に優秀な哲学をする機械であると言える。

 

言語の限界

言語には伝達手段として限界があることについて書いていこうと思う。

 

例えば自転車の乗り方を言葉で説明されても自分で経験するまでは一切乗れるようにはならない。

 

言語は相手が体感した記憶を想起させるだけなので、相手が経験したことがないことは構造的に既存の記憶の合成による近似以外の手段でしか伝達することができない。

 

自転車に乗ったことがある人には自転車の乗り方を言語で想起してもらうことは可能だが、自転車に乗ったことがない人に対しては不可能となる。

 

これが言語の限界となる。

 

だから、何でもかんでも概念にしようとすると、言語化不可能の体感が軽視されやすい。

 

情報量で言えば本来言語の方が体感よりも圧倒的に劣る。この体感は自他による証明など一切不要で今この瞬間に非言語であるが即時的に存る。

 

夜見る夢の重要性について

夜見る夢の重要性について書いていきます。

 

夢は記憶として人生の大きな一部

なぜか幼少期に見てずっと忘れられないような夢があったりする。

ふとした時にそれを思い出して、何かの行為を止まったり発破されたりということがある。

 

このように夢は記憶として行動や意思決定に大きく影響を与えうるため、一生の展望を決めうる非常に重要な一幕となる。

 

わざわざ解釈等しなくても、金持ちになる夢を見たらそれが例え夢だとしても即時的になんか嬉しくなったりする。

 

朝起きてから嬉しくて、金持ちのイメージが記憶として残っているとすれば、残ってない時と行動が全然変わってくると思いませんか?

 

ということです。

 

後これは構造的に証明できないのだが、夢は朝起きてすぐなら普通に思い出すことが可能です。

 

夢は思い出すまでは忘れていても、朝目覚めてすぐに頑張って思い出すと、そういや何か誰かに励まされる夢を見た記憶があったりする。

夢の中で励まされても現実で励まされても感情的には同じことなので「よし、今日も頑張るかー」と勝手にやる気が溢れてくる時があります。

 

よく分からなくてもやる気が溢れていれば普通に現実での行動も変わってくる。

 

だから夢を忘れるのは大量の記憶やイメージの損失であり、非常に勿体ないのだ。

 

正義の概念は存在しない

正義の概念は存在しないが、正義のイデアは存在するんじゃないかということを書いていきます。

 

正義の概念

自己利益のパースペクティブを持たない正義の概念なんか存在し得ず全て体良く見せるための方便でしかない。

 

例えば「ルールを守りましょう」という人は実は正義の人ではない。

本当は誰もルールなんか守りたくないのに、一人だけ守らない人がいるとズルい。だからわざわざ注意をしてきたりする。

 

正義VS悪ではなく、「自己利益VS自己利益」なのが自他問わず世間の本質となる。

 

正義のイデア

世間の人が言うような正義の概念はどう考えても自己利益でしかありえないとは思うが、人が言葉を持たない時から存在した良心、もっと牧歌的な何かは存在しうるんじゃないかと思いたい。

 

例えば綺麗な絵を見ると綺麗だなと感じる、子猫のような小さい存在をみると可愛いなと感じる、そう言う小さい存在がイジメられてるのを見ると不快になる、あらゆる生命に共通する正義のイデアは実在するんじゃないか。

 

しかしそれは言葉では表現できないのかもしれない。

 

動物は言葉や概念を恐らく持たないが、優しさや思いやりを感じることは沢山ある。