名誉心に程遠い謙遜な家庭の息子たちは
ひとたび道徳的感情を失えば、通例急速に
完全なごろつきに成り下がる。
(曙光 一部抜粋)
という感じのワードが、とあるコメントを見ていたらふっと湧いてきた。
玉石混交のカオスの中から、自分の力で分析することにおそらく関心がない。
独自の結論に辿り着くはずだが、なんか違和感を感じたコメントとかは、よく見ると何故かほとんど大体同じことを言っているのが目についた。
この人たちは、この人たちが良心の呵責を感じつつも敢えて馬鹿にすることによって叱咤している人たちと下記の点で共通している。
1) 二元論的無謬論
2) 結論ありきの信仰
特に1)は、論者を自称するにしてはあまりにも初歩的なミスなので、ものすごく違和感があった。
少し考えてみたが、
つまり、精神的安心感の解消と劣等感の補償を提供するメディアの、熱意ある支持者という感じになるのかなぁ、と思った。
だが、それにしても単なるアンチテーゼを目にしたぐらいで信仰心が揺らぐようでは、それは熱い信念の欠如を示すようではないか?
つまり仮に何らかのメタ的構造を持つ精神鍛錬とかでは無いとすれば、この人たちは熱意の宗教者としても、迸る熱意を胸に秘めた論者としても、あるいは何らかの活動家にしても、あまりにも、中途半端に見える。
となれば、彼らの真意は何なのか?
信仰者でも論者でも活動家でもないとすれば、認知的不協和による不快感の打ち消しの不随意的な表出以外には考えられ無いということになってしまうのだが、何かの間違いなのだろうか?
つまり例えば、早朝に聴こえる小鳥の音楽のように、文言的に注目すべきところは何一つない、ということになってしまう。
小鳥の音楽は美しいと感じるが、コメント欄の罵り合いには、どこまでも昏い底意が渦巻いている。
自称"論客"達へと感じる違和感。
自称小鳥達の音楽。
彼らの良心の呵責が、ほんの少しでも少なくなって欲しいと思う。