近づかないことの賢さ

 特に媚を売って向こうからやってくる物には大体底意があると思うが、普段意図せず目にするものは大体がそういう機会によると思う。

 

 例えば匿名で何の関係もない名前すら知らない誰かを集団でリンチして、しかも何の大義もない。頭も感性も捻じ曲がっていることを隠すための大義名分、単なる集団いじめが、まるで良いことかのように扱われ正当化されている空気すらある。

 

 そういうのばかりに触れていると、良くないのが当たり前なのだと錯覚してしまうことになる。

 

 知る、ということが凄いという感じだと思うが、逆に知っていることで迷いが生まれたりすることもある。

 そもそも近づかない、そもそも知らない、ということも一つの賢い選択になってくると思う。

 

 「ただ近づくだけだ」という気もするが、家族や友達のように、無意識的な影響は意外と侮れなかったりする。

 昔なら公にはまず目にすることのなかったような人たちや、考え方などが、なんのふるいにもかけられずに簡単に目にできるような時代だ。

 

 バカで当たり前じゃない。悪くて当たり前じゃない。

 一つの偏見に過ぎないものがまるで当たり前のように語られているのはやはり辟易だ。