そもそもが形而上観念同士

 観測不能であるが故に検証不可能である全ての始動因子的なものの存在を前提として体系を開始させる立場に対して、人格に言及するような形で論駁することを是とする立場の人を見かけるが、構造上、それが無いと仮定すること自体も、同じように形而上的信念でしかあり得ない、ということはあえて考慮しない立場のようだ。

 

 全ての始動因的なものがあると仮定することも、無いと仮定することも、どちらも精々信念であり、片方だけが形而上的命題を無条件に採用していると思われがちだが、実はどちらも採用しているのである。

 

 二元論的に分けて考えた時の形而上的実在や、二元論的に分けて考えた時のもう片方が活動を停止した時の形而上的な持続についてや、その円環についてなど、様々な命題があるが、そのどれもが経験可能な物理世界の範疇を超えており、また空間や時間に純粋に関連することでもないため、アプリオリに判断することもできず、従って、論証可能な形では検証することが一切できない。

 

 ということで、この手の命題はあるもないも、いずれにせよ経験しない限り、形而上的仮定、或いは信念でしかあり得ないのだし、どうせ悟り切ってるわけでもないのだから、より人生が楽で楽しく生きれるものを(選びたければ)選べば良いのにも関わらず、何故かそういう実在を仮定すること自体「信念」であるという「信念」によって全てを退けている非常にストイックな人が多い。