超常現象は超常現象ではない

可視光線とかあることから分かるように、五感として感じている物は、観測している対象自体ではない。

 

世界自体を観測する時、たった五つのセンサーでしか感知できてないのが人間という存在になる。

 

非常に限られた五感を世界自体だと錯覚しているから、この手のことはあり得ない超常現象だーとかなんとか言って意味不明な解釈になる。

 

(エネルギー波/世界自体/あるいは意思でも何でもいい)

↓ 五つのセンサーによる解釈 デコード

いわゆる現実

 

だから今見てる現実は物理ではないのだと思う。

 

で、たぶん思念や感情もエネルギーなので、世界自体に恐らく干渉することができるのだとして、

もし世界自体に干渉できれば、それを今デコードしているいわゆる現実世界も結果的に書き変わる。

 

例えばVRの中に人がいるとして、口頭でシーンを変えてーと誰かに頼んだら、その人が機械をいじって今いる場所を三番から四番に変えたとする、そうすると結果的に自分が見てるものも変わると思う。

 

これがいわゆる不思議現象全般の基本原理となる。

 

これは絵を見て綺麗だなぁと感じるのと似たような感じなので、信じるとか信じないとかではない。

 

とはいえ、そもそも五感が世界自体だという前提が誤りなのであって、この手のものは超常現象でも何でもない。

 

二元論的ラベリングの批判

1. 全ての対象は、Aまたは非Aに分類できるとする。

2. その時、どちらかに属する対象はどちらかに属する対象に対して、階層的位置構造を持つ。

 

1に対して

・Aまたは非Aであることは、時間軸の移動によって今後別にカテゴライズされないことについては何も述べていない。

 

2に対して

・全く別の体系、Bが存在し得ないことについては何も述べていない。

・階層的位置構造について、Bと矛盾した場合、どちらが優先されるかについては何も述べていない。

しかし、階層的位置構造を決定するには、A>B, B>Aなど概念的位置構造の前提を受け入れなければならないが、階層的位置構造はそれ自身についてしか述べていないため、構造的に絶対性は持ちえない。

 

従って、Aまたは非Aであることを理由にして階層的位置構造を決定するのは誤謬である。

 

そもそもが形而上観念同士

 観測不能であるが故に検証不可能である全ての始動因子的なものの存在を前提として体系を開始させる立場に対して、人格に言及するような形で論駁することを是とする立場の人を見かけるが、構造上、それが無いと仮定すること自体も、同じように形而上的信念でしかあり得ない、ということはあえて考慮しない立場のようだ。

 

 全ての始動因的なものがあると仮定することも、無いと仮定することも、どちらも精々信念であり、片方だけが形而上的命題を無条件に採用していると思われがちだが、実はどちらも採用しているのである。

 

 二元論的に分けて考えた時の形而上的実在や、二元論的に分けて考えた時のもう片方が活動を停止した時の形而上的な持続についてや、その円環についてなど、様々な命題があるが、そのどれもが経験可能な物理世界の範疇を超えており、また空間や時間に純粋に関連することでもないため、アプリオリに判断することもできず、従って、論証可能な形では検証することが一切できない。

 

 ということで、この手の命題はあるもないも、いずれにせよ経験しない限り、形而上的仮定、或いは信念でしかあり得ないのだし、どうせ悟り切ってるわけでもないのだから、より人生が楽で楽しく生きれるものを(選びたければ)選べば良いのにも関わらず、何故かそういう実在を仮定すること自体「信念」であるという「信念」によって全てを退けている非常にストイックな人が多い。

 

INTPの強み

ネット上ではデメリットばかり語られる気がするので、少しフォロー的なというか、手前味噌ながら書いていこうかなと思う。

 

数年前のMBTI知りたての時はこう言うの読むの好きだったなぁと思い、オリジナルで書いていこうかなと。

 

あくまでも僕の印象でしかない、ということは先に書いておきます。

 

絶対に自分を曲げない意思の強さ

のらりくらりしてるように見えるので、外見からはなんだか気が弱そうに見えるが、実際は「我」が他の追随を許さないレベルで滅茶苦茶に強く、理屈が通ってる限り、何があっても絶対に曲げないという意思の強さがある。

周りの人と違うことを、例え自分一人になったとしても理屈に沿う限りは平然と実行する人が多いだろうということで、よく考えてみると普通よりも圧倒的に我が強い人が多いということが読み取れる。

つまり意識的かどうか分からないが、実質的な自信家が多い気がする。

 

忍耐力がある

第三機能にSiが来てるらしいのだが、意外と単純作業や肉体的な負荷に強い人が多い気がする。

興味ある分野に対して毎日継続して努力したりとか、コツコツ続けるのが得意な人が多い印象。

 

人の悪口を言わない

感情的に言えば、嫌だから避ける、とかはあるかもしれないが、だからと言って相手の(生得的な)人格自体を感情的に否定し始めるとか、しかもいわゆる憂さ晴らし的な感じで悪口を公言するような人は少ないような気がする。

 

気性的に穏やかな人が多いような。そういう負のエネルギーみたいなものはだいたい内側に向いて、反省したり改善したりに向ける人が多い気がする。

 

その代わり、落ち込みやすいような気もする。

 

反対意見も簡単に採用する柔軟さ

何か採用した方法が上手くいかないと、いわゆる信念やビジョン的には悪いので最初からの意思を貫き通すようなスタイルをとる人もいるのに対し、

INTPの場合は特にこだわりとかがなく、あくまでも思考的に妥当そうだから当座に採用してるにすぎないので、反対意見とかも偏見なくすぐに取り入れていくことができ、どんどん自分の意見を改善していける人が多い気がする。

 

その代わり、一貫性がないと言われやすい気がする。何がしたいのと言われやすい。

 

協調性の高さ

なんだかんだで、自分から好きで雰囲気のようなものを乱したいと思ってる人は少ない気がする。

 

そういう部分を問題に思って、誰かに八つ当たりのようなこともしないで、少しずつ改善していけるような本質的な協調性の高さもある。

 

まとめ

意志が強いが、周りの反対意見も取り入れることができ、なんだかんだで自分以外の人のことも考えることができる。

 

また、何か目標を達成するためにはどんなに辛くても耐え抜くような忍耐強さもある。

 

つまり、第一に意思の強さ。

 

第二に、なんだかんだで人の役に立とうという、協調性の高さがある。

 

運気を呼んだ先生

中学生の時、元々たるんだ部活だったんですが、ある先生が顧問になった途端に地区で優勝するぐらいの成績を出せるような部活になったという記憶があります。

 

その先生が勧められていたのはこんなことでした。

・掃除と整理整頓

・仲間の試合中に応援

・時間通りに練習に取り組む

 

元々ゆるゆるだったので先生の「本気で頑張ればなんでも楽しい」という言葉が記憶に残ってるのですが、そういう感じでみんなで頑張って取り組むというのも青春の1ページという感じで凄く楽しかった思い出です。

 

。。

 

と、いうことをふと思い出して、なんとなく家の掃除をしていました。

 

天井の隅のあたりも掃除したり、他にも洗濯機や冷蔵庫も綺麗に拭いていくと、段々とありがとう、という感じでした。 

 

あと意外と自分が掃除好きなんだなということにも気づけてやって良かったです。