形而上の学が発展しないと言われる理由に関しての考察

※しょうもない独り言です

発展とは命題に対する明確な答えの集積とする。

 

また何かしら考えて明確な答えを見出そうとする活動全般を(そもそもの語源的に)Philosophiaと定義して、かつ命題の検証の対象を形而下、形而上で分類できるとすると、学問全体がPhilosophiaの一種となるのではないか。

 

Philosophia

    - 形而上学

    - 形而下学

 

「存在するとはどういう意味だろうか?」

「空は何故青いのだろうか?」

 

どちらも日常的に生まれるような素朴な疑問だが、一つ目はしょうもない検証不可能な疑問なのに対して、二個目の空が何故青いのか?については一応は身の回りの物を検証して確かめたりが(すみません多分)可能になっている。

 

ということで数学やその他の科学は、命題に対して明確な答えの集積をすることが可能になっている。

 

数学については公理だったりを基盤として命題の真偽を判別できるのだろうし、その他の科学だったりも(すみません多分)恐らく基本的には実際にデータを集めたりすることによって命題の真偽が判別することが可能になるのだろう。

 

ということで、命題に対する答えが歴史と共に集積されていくため、発展という事も可能になる。

 

しかし、例えば「存在するとはどういう意味だろうか?」というタイプの疑問は身の回りに目に見えるものとして存在する青空などと違って検証することができず、また先験的に備わる空間・時間などの悟性のようなものを基盤として真偽を判別することもできない。

 

この手の問題は検証できないので真と偽のどちらの可能性も否定しきれず、構造的にはどちらの可能性も存在しうる、というのが結論になってしまう。

 

テーゼ:「天国は存在する」

アンチテーゼ:「天国は存在しない」

いくら考えたところで、どちらの可能性も否定しきることはできない。

また、死んだ人間は生きていないので検証することもできない。

 

これが人類が何千年も形而上学を考え続けてきても命題に対する答えの集積という意味で発展しない理由ではないか、、?

 

つまり命題に対して経験しえず検証することができない故に、真とも偽とも判別できない問題が多く、命題に対する回答の集積を発展とすると、その意味において形而上学は発展するということが構造的に難しいのではないか。

 

 

古代では何か命題を立てて検証する活動(まぁPhilosophiaとして定義した物とする)の対象は色々あったらしいが、現在では特にその形而下の部分は科学に分離しており、現在普通にいわゆる「哲学」といわれるのは特に形而上の物を対象にしているのだと思う。

 

しかし元々その活動の対象は身の回りの全ての物が対象であって、よく分からんがそもそもどちらも源流は同じだったんじゃないか?違いは命題が検証可能でありその明確な答えの集積があるかどうかじゃないか?というまぁしょうもない疑問が生まれたので書いてみたという感じだ。