大多数の匿名の人々が参加する情報空間におけるいわゆる批評への辟易

一般的に情報空間においてやはり確率的な問題なのかもしれないが、特に直接的なアプローチを取らないタイプの媒体への言及に辟易を感じることが多いので少し書いていこうと思う。

 

勿論、誰が何を思おうと自由だが、もし世の中にお前みたいな奴しか居なければ、変化の変化による探索可能性の比較的な低さという意味において、人類は未だに焚き火を囲んでいたんだろうな、という感じだ。

 

分からないと不満を漏らしてその感情のうねりのようなものを漏らすのも勝手だが、書いた人作った人はそもそもあなたのような人を対象にしていない可能性だってあるわけだ。

 

例えば、変な話ではあるが、僕が幼児向けの絵本を読んでつまらん、と嘆いたところで、作者はただ困惑するだけだろう。

 

ということで、作者の意図が必ずしも人工に膾炙させることでない可能性がある限りにおいて、自分の感情を即ち作品自体の出来に結びつけることはできない。

 

で、この程度のことに対して少なくとも関心がないだろうということに加えて、かつ自分自身が誤謬を内包しているかもしれないというその可能性すらまるで考慮できていないかのように振る舞う立場の人々にはかなり辟易する。

 

本当に頭のいい人であれば、そんな言い方はしないはずである、などなど。

まぁ、言いたいことは分かりつつも、(頭脳明晰でかつ聖人のような人は確かに理想だが)しかし現実には性格が悪くても頭脳明晰な人など枚挙に暇がないわけだ。よって反証材料足りえないわけだ。

 

日常空間において、あくまで恐らく論理などと分離していると仮定したときの好き嫌いなどの感覚を直接的に意思決定の指標にするというのは労力などの点においても合理的ではあるが、しかし直感や感情に反しているがしかし実際には正しいものも沢山あるわけだ。

 

よって感情的なものは生物学的なフィードバック?的な指針にはなるかもしれないが、無矛盾律などを前提とする限りにおいて、当たり前ではあるがそのままその感覚自体をいわゆる論理などの文脈における正しさの根拠にすることはできない。

 

これはつまり一切の蓋然性に言及する立場についても同様である。

 

僕が誰であろうと、何であろうと「1+1=2」というのはいわゆる「説得力」などとは全くの無関係に正しい。(もちろん、これは誰にとっても明らかであるものの例えとしての範疇に留まるが)

 

そして僕がそれを明瞭に証明など出来なかったところで、或いは誰も説得できなかったところで、しかし誰が何と言おうと、論理法則が普遍性を持つ限りにおいて、正しいものは正しいのである。

 

それは少なくとも、私やあなたの人格、或いは日常的な意味においての説得力などは、(その体系において矛盾などがないという意味においての)0か1かの明証性にとって少なくとも何の関係もない、ということだ。

 

論理法則に普遍性がある限りにおいて、人物や人格や印象などはその正しさにおいて全く関係ないことである。

 

よってその文脈において感情を判断材料に持ち込んでくるのは、全くの誤謬と言わざるを得ない。

 

また、こういうことを書くと違った意味で捉える人もいるかもしれないので一応書いておくが、僕は自分の意見を通したいのではなく、より正しいであろうものを(もしあるとすれば)知りたいという感じだ。

 

この文も何かを主張すると言うかは思考の材料程度にという感じで書いている。つまり合目的的に解釈するには僕がそれを念頭にして書いていると言う前提が必要になるという感じなので悪しからず。