生きる目的を考えるのは意味がないのか?

生きる目的って何だろう。たまに考えるがよくわからないままだ。

抽象的な事を考えるのは面白い。特に哲学的なものは最高だ。単語ごとに厳密な定義をする必要があるのでかなりの時間没頭することができる。なのに必要なものは己の脳髄と忍耐力だけ。暇つぶしにも最適だ。私とは何か、世界とは何か、存在とは何か、ゴールが見えないので飽きることもない。

さっきネットサーフィンをしているとイラッとする文が目についた。「生きる目的を考えるのは意味がない」というものだ。まぁ「考えることができない」の間違いだろう。突き詰めて思考したことがない人間の言い訳だ。そうしていつまでも誤魔化し続けながら生き続けていけば良いさ。根本的な問いから逃げる事を大人になったと美化しているだけなのだ。

だが、本当にそうなのだろうか?日常生活では意味なんか知らなくてもやり方さえ知っていれば表面上どうにでもなる場合が多い。そういう文脈においては意味がない、というのは事実ではないか?つまり、日常生活に支障がないことを至高善とした時に、それを根本的に疑うことはその妨げにしかならない、ということなんだろう。

こうして定義してみると、やはりこれはドグマのような気がしてくる。1日に100回放屁することを至高善とした上で、それに対して疑いを抱くことはその妨げにしかならない。これと同じことを言っているからである。つまり、なぜ100回放屁することが至高善なのか論証がないという点で共通している。

まさに屁のような理屈だ。日常生活は確かに生きる事そのものである。それに疑いをかけるのはどこまでも愚かであり、下らない例と比べるまでもない。だがそれは、あくまで諸前提が正しいとした上での話だ。
本当に世界は存在するのだろうか?
本当に他人は存在するのだろうか?
本当に時間は存在するのだろうか?
本当に自由意識は存在するのだろうか?
精神病患者のうわごとだろうか。だがこうした命題が一つでも間違っていたら日常生活はどれほど変わるのだろう。そして誰が一体これに答えられるのだろう。

誰もこうした命題に答えられないにも関わらず、何故かわかったような態度をとっている。適当なことを言っているのだ。100回放屁と同じだ。なぜ100回放屁しなければならないのか考えたことがないのだ。ドグマへの固執、結果ありきの議論、堂々巡り。

だが私だって何もわからないことに変わりはない。こうして「意味」について書いてきたが、意味とは何なんだろう。そして何故問わなければならないんだろう。馬鹿みたいだ。いや実際に馬鹿なのだ。それ以外の何者でもない。

生きる意味を考えることは意味がない、少なくとも限界まで突き詰めてから言って欲しいものだ。日常生活の維持を根拠にしているなら、それは前提命題を無条件に肯定せざるを得ず成立していない。

それは理論と実践の混同から発生するのだろう。彼らの性質としてドグマに沿わないものは全て屁理屈らしい。全てを矮小化して見る、一種のパースペクティブだ。

だがそもそもの話であるが、絶対の基準など存在しえない。基準を測るのにも基準が必要になるからだ。だとしたら、これが生きるということなんだろうか。