完全なオリジナルなど存在しない

世間ではオリジナリティ、独自性というものが素晴らしいとされている。
だが、実際にそんなものは存在するのだろうか。
ふと疑問に思った。
思えばそもそも自分ですらオリジナルではない。
例えば、我々の肉体は今までに食べた動物や植物で作られている。
骨も皮も目も耳も内臓も、全て元々は他の生きものの一部だった。
それに我々の肉体を方向づけているのは両親のDNAだ。
骨も皮も目も耳も内臓も、全てDNAが何かにプログラミングされた通りに作られている。
厳密には違うだろうが、少なくとも自分が作っているものではない。
となると少なくとも肉体に限れば何処にも自分というものはないと言えそうだ。
では、精神はどうだろうか。
精神が存在するのには思考が必要で、思考には言語が必要だが、それは自分が作り出したものではない。
我々は語彙を組み合わせて、意味を形作る。
だとするならその組み合わせこそが自分なのだろうか。
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話は変わるが、次に自分でやるという言葉の意味を考えてみる。
自分でやるということは、その行動をする前にすると意識することだ。
これに沿って考えると、我々は果たして自分でやる、ということをしているのだろうか。
我々は考える前に、考えようと意識しているのだろうか。
仮にしていたとしても、考えようと意識しようと意識したのだろうか。
こうして考えてみると、語彙の組み合わせこそが自分である、とかいうのはどうでも良く思えてくる。

また、感情に関して言い忘れたが、それに関しても上記の理屈と同じものを適用できる。
楽しいと思う前に、私は楽しいと思おうと意識してはいない。故に先の定義に従えば自分とは言えない。

肉体も精神も感情も自分ではない。
だとするなら自分とは何なんだろうか。
恐らく一般的に言われるような自分は無い、だが存在していないわけではない。
我思う、故に我あり。
世間では、その語感の良さからか多用される言葉だ。 だが、では我とは何なのか?ということに対して何も述べていない。
そもそも本当にデカルトに従うなら、デカルトすら疑わないといけないのでは無いか?
理解するものとされるものに中間者を置かないということを良しとしていたからだ。
本題からずれた。
これまでを踏まえてオリジナルとは何かを再び考えてみよう。
というか既に考えてある。以下がそれだ。
無から有を作り出すことを創造と呼ぶなら、人間には創造などできない。
人間の創造とは、時代や地域を問わず既存のものを組み合わせることであり、その新規性がオリジナリティと呼ばれる。
具体例を出してみよう、まず服は繊維の組み合わせだし、家などの建造物も素材の組み合わせだ。
こうして考えると物理的な創造というのは、既に存在する物質の組み合わせであると結論できそうだ。
では精神的な、つまり形を持たない創造はどうか。
これを構成するものは語彙の集合体、すなわち概念の統合である。
物語、数式、論文、発明、理論、どれも言葉や概念の組み合わせであり、全くの無から出現しているものではない。
これが正しいとするなら、恐らく一般的に言われているオリジナリティというものは全くの幻想である。
自分ですらオリジナルではないのに、何故創作に限ってオリジナルが存在するのか。
以上から言えば創作とは、普通に言われるような無から有を作るような行為ではないと主張できるはずだ。

最後にこの言葉を引用する。
個人的には、有名人が言っていたからそれは正しいという論法は好きではない。
(それが成立するとするならば、その人が言うことは、どんな言葉でも無条件に真である、という命題を肯定することになるからだ)
だが、普通に良い言葉だなと思ったので参考のため引用する。
ニーチェが本で書いていた箴言の一つだ。(すいません。どの本だったかは忘れてしまいました)

偉大さとは方向を与えるということ。
どんな河も自分自身によって大きく豊かなのではなく、実に多くの支流を受け容れて運んで行くことによってそうなるのである。肝要なのは、のちに多くの支流がついていかねばならぬような方向を支持することだけであって、天賦がはじめから貧しいか豊かかということではない。