絶望するには希望が必要である

日常的に生活していると色んな楽しいことがある。

今更こんな誰も見ていないブログで言うまでもないことだ。

だがこうして思い返してみるとそれと同じくらい嫌な事もある気がする。

自転車通勤なのに雨が降っていたり、可愛い人がいても話しかけられなかったり、大事にしていた本がずぶ濡れになったりする。

月並みな解釈をすれば、これが生きるということだ、という風にでもなるのだろう。

だが、ひねくれもの代表としてはそんな一般的な解釈は受け入れられない。

僕は、理解するものとされるものに中間者を置きたくないのだ。

こうして自問自答が始まるのである。

その一応成果として、色々気づいたことがあったのでこうして吐き出していく。自己満だけど。

辛い事が起こる時、必ず期待が存在する

一般的には、良い事の最大化を目指すことが幸福であるという論調だ。

だが、これが正しいとした場合逆説的な結論になるのではないか?

つまり、良いことを最大化すると苦痛も最大化される、ということだ。

まあ結論だけ言ってもわけわからんので説明する。

良い事とは、何か期待があってそれが満たされるということだ。

例えば、おなかすいたなーと思い飯を食えば良い事、空を飛びたいと思い飛べたら良いこと、となる。

これらに共通しているのは2点。

・前提として期待がある点。

・「良い事」の条件として期待通りになる必要がある点。

つまり「良い事」が発生するには前提として期待の存在が必要になる。

そして、どんなことでも期待通りにいかない場合、苦痛が発生する。

とすると良い事を最大化した場合、原理的に苦痛も多くなる。

多くの「良い事」を経験するには、多くの期待が前提となるが、思い通りになることの方が少ない。

期待を消せば苦痛は消える

こうして考えると「期待」がキーワードな気がしてきた。

何故なら、以上の理屈が正しいとするなら「期待」をしなければ原理的に苦痛は存在しなくなるからだ。(少なくとも精神的なものは)

だが、ここで問題となるのが期待というのは自分の制御下にないということだ。

期待をするなと言われてもしないのは無理だし、そもそもこれ自体矛盾している。

期待しないことを期待しているからだ。

期待しないことを期待している

原因を消せば、結果は消える。

また原因が揃ったとしても、条件が揃わなければ結果は生じない。

思考すること自体が期待を孕んでいるなら、どうやっても苦痛は消えないのだろうか。

苦痛をなくすことに期待している、という構造から逃れることはできないからだ。

無限後退のような構図にどうしても陥ってしまう。

...

わからない。

大きな希望は大きな絶望を生む

こうして考えても結論に至ることができないという構図に陥っても、あまり落胆はなかった。

それは何故か?

あまり期待していなかったからだ。

だとしたら、つまり少なくともこう言えるだろう。

 

期待が大きければ大きいほど、絶望も大きくなる。

絶望するには必ず、希望が必要なのである。

 

うーん、うまく纏まらなかった。

以上