「明るくなれよ」への違和感

ネットサーフィンをしていると、たまに凄く違和感のある言葉に出会います。

「明るくなれよ」もその一つです。

いや、確かに明るいに越したことはないですよ。

明るいに越したことはないですけど、明るく「なれよ」というのはおかしくないですか?

なんか他人の価値観を想定できていない適当さを感じます。

なのでこの言葉見るたびにイラッときます。

言い換えビフォーアフター

まぁでもイラつかないに越したことはないじゃないですか。

なのでどうやったらイライラしない文になるか、少し考えてみます。

Before:「明るくなれよ」

After: 「明るいに越したことはないよ」

こうするとマシな感じになりましたかね。

僕のイメージではなんかイケメンが言ってる感じです。

明るい越したことはないよ。…でもさ、

みたいな感じで続きます。

思慮深いイケメンは素晴らしいですね。

前提からおかしい

さて話は変わりますが、じゃあなんで違和感を感じるのかという話ですよ。

個人的には前提から間違っているからだと思います。

明るく「なれよ」と命令形になってますが、これは感情は自分の意思でコントロールできると前提してますよね。

でもこれ、明らかに嘘です。

感情はコントロールできるものではありません。

感情が自由にコントロールできるなら、世の中に鬱病患者はいません。

誰だって好きで暗くなっているわけじゃありません。

そう言ったことも考えらない人が、「明るくなれよ」と言う人です。

大して頭も回らないくせに、謎に自信だけある適当さに腹立つってことでしょうね。

性格は生まれつき

そしてその手の人は、最終的に性格自体をバカにしてきます。

まぁ悪口は千差万別ですが、つまり彼らはこう言いたいわけです。

「いつも明るい俺と比べて、どうしてお前は陰気なんだ。理解できん。」

うーん。

確かに明るいのは事実なんでしょう。

でも重要なのはそこじゃありません。

彼は自分の意思で明るい性格になったわけじゃないですから。

つまり自分の意思で性格は作られていません。

なのでこれはサイコロの出目を競い合うようなものです。

そこに個人の実力は無く、あるのは運だけです。

何となくサイコロを振ってみます。

2が出ました。

「なんで2なんだよ、6を出せよ」