誰も読まない文を書き続ける

こうしてブログを書いているのは、自己満足が一番の目的だ。日常的に思ったことや感じたことを誰の気も使わずに書いて悦に浸りたい。もしかしたら同類のような人と関わりが生まれるかもしれない。こういう発想が結局根底にある。

だから誰にも見られていないということは大した問題ではない。重要なのは自分が満足できるかどうかであって評価されることではないのだ。それに評価と満足は必ずしも連動していない。例えば誰にも認められなくても、絵が上手く描けた時は十分な満足感が生まれるのだ。

自由になるとすれば、それは自分の精神のみだ。とデカルトという哲学者は言った。他人を変えるよりも自分を変えた方が建設的であり、欲求を満足させるより諦めた方が良い。そう考えることで、自分の意思ではどうにもならないことに期待を持たないことが重要なのだ。

だが言われなくても知っている。これは逃げだ。努力しないことに正当性が欲しいだけだ。できないと、そう運命で決まっているなら努力したって仕方ないからだ。

結局のところ、甘ったれているのだ。手抜きしたいだけなのだ。自分を曲げるようなことはしたくないのだ。でも結果は欲しいのだ。とにかく楽して手に入れたい。傷つきたくない。そういう醜い精神の発露なのだ。側から見ても家畜のようなクレクレ精神だと思う。

だから俺はこうして読書に励むのだ。現実では経験し得ないことを想像で補うために。衝動を妄想や空想で満足させるために。宇宙はどこまでも広がっているが、俺の知覚は地球上の一点に留まっている。現実逃避は根本解決にはならないが、そこまで悪く言われる必要もないと思う。空想でもそれなりには満足できるからだ。

こうして駄文を書き連ねているのも、そういう文脈の中にある。何かの作業に没頭すると、余計なことは頭から消える。一時的に現実から逃れられる。夢を見ることができる。それが白昼夢だったとしても。良い眠りは本人にとっては心地よいものだ。

だが、人は他人の夢には興味を抱かない。誰だって自分が一番大事だし、俺だってそうだからだ。誰か読んでくれーと思ったところで、興味がなければ読みもしない。感情に流され、気分に任され、人はそれぞれ夢を語るが、同調するのは利害関係が偶然伴ったときだけだ。相性とはお互いに都合の良い存在のことであり、人は己の夢を見続ける以外にない。

こうして俺は俺の夢を見続ける。

誰も読まない文を書き続ける。