社会から有機性が無くなっていくことについての考察

となんか偉そうなタイトルだが、別に感想程度なので与太話的な感じでお願いという感じだ。

 

さて何となくネットを眺めていたら、ある記事が目について「え、そんなところまで今は管理されるんだ」と思って寂しくなったので書いている。登下校の管理システムがどうこう、みたいな感じだ。とはいえそれは別によく知らないので、より話を一般化というか膨らませて、有機性のようなものが社会からなくなっていくことについて考えたことを書いていこうかなと思う。

 

あと実体験としても、兄弟の運動会でも申請した人しか行けないみたいな感じになっていて、窮屈になってきたんだなぁと少し寂しくなった。

 

で、登下校の管理、まぁ時代もあるだろうが、僕のころを思い出すと、寄り道してよく知らないところまで目的もなく行ったりすると、あーこんな場所があったんだみたいな場所を見つけて楽しかったりした記憶がある。

 

田舎住み特有かもしれないが、友達と近所を探検してなんか変な沼みたいなのを発見したりして小学生的には面白かったりとか。

 

でもこういう経験ってシステム的にはよほど考えて作られた物じゃなければまぁ合理的ではなくて、今後排除されていくのだなあと思い、これも少し寂しくなった。

 

もちろん、黙って決められた道をみんなで黙って帰ってれば合理的なんだろうが、少しつまらないなぁと感じる。

 

しかし合理的であるのにもかかわらずなぜ、つまらないのか、と考えた時に「偶然さ」に開かれているかどうかかなと思った。

 

例えば、どの学校に行くか?は決められるが、クラスに入って、さてどんな人たちと会うか?これは普通であれば完全に偶然だと思う。

 

今後、そういうファジーさが更に消えてくることによって、あらゆる分野において意識に選んで、行動しなければいけなくなるのだなぁと思った。

 

時代的に登下校の寄り道すら管理されていくように、学校とか、職場とかで偶然会う人とか、そういうのも無くなっていくのだろうという感じだ。

で、それで何か問題あるのかと考えていったときに、仮説でしかないが「偶然性」つまり自分の予想していた以上のことが無いと、あまり良くならないんじゃないかと思った。

 

思い返してみると、仲良くなった人とか、面白いと思ったものとか、大体偶然で意識的に選んでないものが多い気がしたからだ。

 

例えば特によく喋る友達、中学校くらいからの友人がいるのだが、その人ともたまたま同じ学校で一緒になっただけだし、それって探そうとして今の方法論の下だけでやっても多分見つからないだろう。

 

今やってる仕事も、もともとは全く興味のない分野だったのだが、ある事情でやらざるを得ないことになり、実際に初めてやってみて、あれ?意外と面白くね?と今に続いている。

 

つまり合理性とは、その当時、その分野を知らない僕の中だけの合理性であり、その延長線上にいたら、今自分は全然違う仕事をしていたように思う。

 

結論として、何が問題なのか?システムの延長の合理性では、「偶然さ」に開かれていないため、今知っている中だけの小さい範囲の中に留まざるを得ない。

 

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で、余談だがこういう感じで有機性、肉体性のようなものが進んでいくと、よく言われているが経済的なところ以外でも、あらゆる分野において更に二極化が進むんじゃねーかと思った。

 

衛星放送の発展によって地元のボクサーが食えなくなったように、例えば地元のイケメンは全国的なイケメンに絶対に勝てなくなるんじゃないか。肉体性が排除されたとすると、その距離的な優位性は無くなるためだ。

 

と考えていくと、今後どうなっていくのかなぁという感じですね。