※コミュ障による開き直りです
※結論は出ません
まあ、人によって見方考え方色々あると思いますが、個人的にはINTPらしく定義から考えていこうかと思います。
(一口にINTPと言っても千差万別なので、それを正当化の理由にするのは血液型診断を信じるみたいで好きではないですけど)
個人的定義:
コミュ障とは、一般的なコミュニティにおいて自然な会話をすることができない状態のこと
この場合一般的なコミュニティとは、職場や学校などを指します。
以上の定義に従うと、例えば自分の趣味のコミュニティでは饒舌だが、
職場なんかでは全然しゃべらない人なんかも該当しそうです。(まあ僕みたいな奴のことですが)
この場合あるコミュニティでは喋れてるのだから、本当に喋れないということにはならないと思います。
ですがそういう人は一般的な解釈に従えば、喋らない人、無口な人、変な人となります。
あるコミュニティにおいては、普通に話せるのにも関わらずです。
しかし、だとすると一般的なコミュニティとその他のコミュニティの本質的な差とは何なのでしょうか。
あるコミュニティでは馴染めず、ほかのあるコミュニティでは馴染める。
その点ではどんな人でも同じではないですか? ということです。
例えば職場で常識人とされる人が、昨日見たアニメについて熱く考察するオタクグループに放り込まれた場合、おそらく孤立してしまうのではないでしょうか。
だからと言ってその人の人格の問題とはならないですよね。
そうなると、馴染めるか馴染めないか、喋るか喋らないかは、その人の性質だけではなくどのようなコミュニティに所属するかによっても変わってきそうです。
しかし一般的には、この人は無口だ饒舌だと固定的にラベリングされることは多いです。
その人の外から見た性質が所属するコミュニティによって大きく変わるならば、それはある視点からの一つの解釈であるにすぎず、その人の全てを述べている事にはならないのにです。
つまり、こういうことですかね。
「コミュニティには、その価値において序列が存在する」
(なんか中二臭いですが)
しかし、この場合の価値とは何なんでしょうかね。
仮にいわゆる価値が低かったとしても、所属する人たちが心底満足している場合それはたいした問題じゃない気もします。
価値が無い事に価値が無い、的な(笑)
なぜなら、価値を求めるのは、社会的な立場の向上や能力の向上などが目的になると思いますが、究極的にはやはり精神的な満足感に還元できるのではないか?と思ったからです。
その理由としては、行動の目的を延々とたどっていけば最終的に精神的な目的にたどり着くからです。
だとするならば、いわゆる一般的な指標に沿っていないからと言って、一概に外からは判断することはできない、ということになるんですかね。
価値観とは厳密には個人的なものであるが、ある程度は共通化されているため、一般的な指標が存在するとされている、のかもしれません。
話を戻します。
それはコミュニティによる
どんな人でもコミュニティによって、外面的性質が変化するのにも関わらず一概に判断されることが多いという話でした。
以下個人的妄想のまとめ。
- 基本的にどんなコミュニティでも、その人がそれに所属している時の外面的状態を見てその人を判断する。
- 一般的に僕たちは、学校や職場というコミュニティで過ごす時間が多い。
- そこでの判断のみを採用し相対化されていない、或いは純粋に知らないため。
- その一般的な類型に属していない人が、コミュ障と呼ばれる。
...
そろそろ書くのも疲れてきたので、暫定的な結論を出します。
暫定的結論
コミュ障とは恐らく人口比率の問題であって、その人の性質の問題ではない。
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思いつくまま書き散らかしたので、何言ってるのか自分でもわかってません。
お目汚し失礼いたしました。