注意点
・サンプルは自分しかないですし特にデータ等もないので戯言程度にとらえてください。
・あくまで個人的な考えを垂れ流しているだけなので、厳密な理解や証明を期待している方は読んでも時間の無駄になると思います。
・役に立ちません
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社会適合の人
だれが適合してないか判断するには、だれが適合しているかを考えればわかると思います。
例えば、複雑な事でも単純に捉えて、問題を問題と認識せず、とにかく明るく元気な人間とかですかね。
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というかそもそも適合という言葉が好きではない
社会不適合がどうとか書きましたが、僕はそもそもこの言葉自体が好きではありません。
何故ならあるコミュニティに馴染めないからと言ってその人の人格の問題とはならないからです。
例えば、会社で常識人だと言われているような人が、昨日のアニメについて熱く語るオタクグループに放り込まれた場合どうなるでしょうか。
恐らく孤立すると思います。(実際どうなるかは知りません)
だからと言って、その人の人格の問題とはならないからです。
また、これまでの人間の歴史の中で正しいとされるコミュニティつまり社会はこれまでどれだけ変遷したのか考えてみます。
例えば、今の社会にいわゆる適合している人は、過去の社会において適合しているでしょうか。
何かに適合しているかどうかというのは、時代、地域、文化によっていくらでも変わるんじゃないですかね。多分。
だとするなら普遍的に正しい性格とかは定義できないような気がします。
何故なら何かを正しいと判断するには尺度が必要になりますが、その尺度を測るにも他の尺度が必要になるからです。
何かを判断するということは、ある尺度をまず無条件に正しいと前提するということです。
故に絶対的な判断など存在しません。
という意見も本当に正しいかどうかなんてわかりません。
その人の人格の問題ではない
何かに沿っているかどうかという問題を個人的な人格の問題であると前提していることです。
それに生まれや性別などと同じように、別にその人だって好き好んでそういった性格になったわけではないですし。
という構造もあるのに、何故かその人の人格が絶対的に劣っているとされているのは個人的にはうーん、と思います。
まとめ
いわゆる適合というのは、場所や時代、文化によっていくらでも変わり、絶対的な指標は構造上存在しないにも関わらず、それを人格的な優劣に結び付けるのはおかしい。
という社会不適合者からの戯言でした。